「子どもが道草できるまちづくり」

タバコと同様、クルマもまた、製造・販売・使用自体は合法であるにもかかわらず、多くの人命を奪い、安全と健康を脅かし、自然環境を汚染・破壊する存在である*1。それだけでなく、クルマは、子どもを通学路から「安全」な屋内に追いやり*2、公共交通を衰退させ、地域のコミュニティをも崩壊させた。
それら諸問題の解決のためには、クルマ依存社会からの脱却が必要であることは明白であるのに、その実現が遅々として進まないのは、本問題が内包する「社会的ジレンマ」のなせる業であろう。すなわち、本書によれば、「短期的・私的にメリットのある行動をとる(たとえば自動車を利用する)と、長期的・社会的なメリットが、そうでない選択をした場合(たとえば公共交通を使う場合)よりも減ってしまうという構造」「「今、ここ」における「じぶん一人くらいなら・・・」という自己中心的(利己的)な意識・行動が、未来や社会に悪影響をもたらすという構造」を学術的に「社会的ジレンマ」という。
クルマ依存社会からの脱却のためには、適切なコミュニケーションにより人々の自発的行動を促す「心理的方略」だけで不十分であり、ボンエルフ*3パーク・アンド・ライド駐車場*4の設置、「道路分化」*5など、「構造的方略」が不可欠である。
本書は、日本では「構造的方略」の実行が非常に困難であるため、「心理的方略」を強化すべきとの(上述とは逆の)論理を採るが、果たしてそうだろうか。
狭隘な国土に人口が都市部へ密集し地価の高い日本において、「構造的方略」を直ちに実行することが経済的・社会的に困難であることは、事実かもしれない。しかし、都市部の住宅をマンションなどの集合住宅に限定し、戸建て住宅を規制する等の立法・行政措置を講じることにより、「構造的方略」に必要なスペースを創り出すことは、中長期的には可能なのではないか。
一方で、子どもが安全に遊べる広い道路や広場を欲しながら、他方で、自分の家は都心の一等地の戸建て住宅がいい、などと虫のいいことを考えているとすれば、まさにそれこそが「社会的ジレンマ」というべきである。

*1:タバコ規制に反対する論者は、「それならクルマも規制すべき」と主張するが、本来タバコとクルマは相互に何の関係もない別の問題であり、それぞれの問題に適した規制などがなされるべきである。「タバコを規制するならクルマも規制すべき」とか「タバコが厳しく規制されているのに、クルマがさほど規制されないのはおかしい」というような立論自体がおかしい。しいて両者に共通する問題があるとすれば、本書でも指摘されている運転者の車内喫煙による脳梗塞心筋梗塞認知症など運転中の意識障害や子どもなど同乗者の受動喫煙被害がある。

*2:一見、子どもの交通事故が減少したように見えるのは、道路が安全になったためではなく、「あそびません こわいくるまのとおるみち」という本末転倒な標語などが「奏功」し、単に子どもが外遊びをしなくなった結果にすぎない。蛇足ながらこのような無価値なスローガンは「今日も元気だ タバコがうまい」を想起させる。

*3:自動車よりも歩行者を優先した街路計画。オランダ語で「生活の庭」の意。

*4:郊外からクルマで駅やバス停まで行き、そこから公共交通で都心に移動するための駐車場

*5:ヒトとクルマの道路を分ける。単なる車道への歩道の設置=「歩車分離」ではない。