夏の甲子園の思ひ出

今を去ること40年前の1978年、高校1年の夏、甲子園第60回記念大会に出場した。

といってももちろん選手ではなく、開会式・閉会式の楽隊の一員として。当時、隔年で兵庫県大阪府のいくつかの高校の吹奏楽部に楽器別の人数の割り当てがあり、この年の吹奏楽兵庫県の番*1ということで、総勢100名ほどの楽隊が急造で編成された。

私を含め、多くのメンバーは「吹奏楽の甲子園」こと普門館で行われる全国大会を目指す吹奏楽コンクールとの掛け持ちだったため練習に支障があったが、1年生を中心に甲子園に召集されることになった。チューバの2年生が「パートの音合わせがでけへんけどどないする」と言い出したので、私が「ピッチ*2合わせるだけやったら公衆電話でやったらええんとちゃいます?」と言うと「こいつは正真正銘のアホやな」という目で見られたのを記憶している。

楽隊の指揮を執るのは、地元報徳学園のマーチングバンドの先生。報徳は野球も強いが、マーチングも有名*3で、楽隊の歩き方に「ひざを高くあげるように」など厳しい注文をつけていた。リハーサルは1回だけで、プラカードの女子生徒(毎年、市立西宮高校が担当)、合唱隊*4も来ていた。式のリハーサルのあと、楽隊だけが残り、バックネット裏の客席で練習した。甲子園名物の銀傘に反響して、気持ちよかった。

開会式の入場行進は、楽隊が最初に入場し、全ての出場校が入場完了するまで延々と演奏しなければいけない。曲は有名な大会歌「栄冠は君に輝く」と大会行進曲の2曲のみ。ホルンパートはメロディーもなく*5、ひたすら「あと打ち」「きざみ」「のばし」*6の単純作業を繰り返す。

開会式が終わると、大会関係者のリボンでタダで入場し、第1試合を内野席で観戦。もらった食券で食堂のカレーを食べて阪神電車で帰った。往復のキップも現物支給された。

閉会式は、決勝戦の直後ということで、球史に残るPL学園対高知商業の試合中、アルプス席と外野席の隙間の通路で待機していた。当然、中の様子は見えず、どっちが勝ったのかもわからないまま試合が終わり、大歓声と紙吹雪*7の中を入場していった。このときの曲はスーザの「雷神」。試合はPLが3−2で逆転サヨナラの劇的勝利だった。

大会終了後、記念品として、楽隊の白い帽子をもらった。

*1:偶数年は吹奏楽兵庫県、合唱が大阪府。奇数年はその逆

*2:音程

*3:報徳学園吹奏楽部〜男たちの音楽〜http://hgbb1938.web.fc2.com/pageH1.html

*4:この年は大阪府の高校で編成

*5:同じ金管でもトランペットとトロンボーンはバックスクリーン上でファンファーレを吹くという晴れ舞台が用意されている

*6:これを「ホルンの三大労働」という。出典:茂木大輔著「決定版-オーケストラ楽器別人間学 (中公文庫) 」

*7:飛んできた紙片はマンガ雑誌の切れ端だったと記憶