「内部統制報告制度に関する11の誤解」批判への批判に対する批判

2008.3.12付の「「内部統制報告制度に関する11の誤解」批判」について、著名なブログで批判的コメントをいただいたので、この場で改めて私見を申し述べることとしたい。

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私は、「11の誤解」には、
  上場企業も、監査人も、冷静に金商法を見つめ直し、SOX法のような悪法のもとで培われた実務を真似することはやめ、合理的な内部統制報告制度を考えていきましょう
というメッセージが込められているものとと思っています。
 それなのに、経営者や監査法人
  今更、言われても、何も変わらない。変えられない。
とあきらめているとすれば、それこそ、事情の変化に対応できない硬直的な内部統制システムが構築されている表れであり、そのような態度そのものが
  内部統制の不備
であると思います。

 なお、漉餡大福さんは、
「内部統制報告制度に関する11の誤解」批判
http://d.hatena.ne.jp/koshian_daifuku/20080312/1205240827
「内部統制報告制度に関する11の誤解」等に対する個人的な感想
http://lagrande.blog115.fc2.com/blog-entry-440.html
を引用されて、11の誤解は、批判されています。
 
 しかし、そこで引用されている「11の誤解」批判のほとんどが
  金商法の内部統制報告制度そのもの
に対する批判であり、「11の誤解」そのものに対する批判にはなっていないように思います。
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出典:「会社法であそぼ」2008年4月19日 (土)内部統制(続)より抜粋
http://kaishahou.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_06bf.html

「「11の誤解」そのものに対する批判にはなっていない」との指摘は具体的な根拠等が示されていないが、「内部統制報告制度に関する11の誤解」批判への批判にはなっていないように思われる。その根拠等を以下に示す。
第一に、そもそも「金商法の内部統制報告制度そのもの」に実行上無理を生じさせるような欠陥(表現がわかりにくく曖昧であるため、解釈をめぐる対立や過剰対応への歯止めが利かない)が内在しているのであって、(その点について公開草案の時点でパブリックコメント等を通じて多数の批判があったなかで)本制度の導入が強行された結果、「過度に保守的な対応」などの実務上の混乱や、「重要な欠陥とは何か」「僅少とは何か」といった不毛の論争が生じたのである。にも関わらず、「11の誤解」は、それを単なる企業や監査法人の「誤解」だと言い放っている姿勢が無責任だと批判しているのである。
第二に、「11の誤解」が「誤解」としているいくつかの点は、企業や監査法人側の誤解ではなく、金融庁自身の事実認識の誤りであることを批判しているのである。「11の誤解」は、例えば、米国SOX法への批判を踏まえて制度を設計し、負担軽減のために配慮したとしているが、実際には米国SOX法よりも厳格な制度になっている(例えば持分法適用会社が評価・監査対象になっている(米国では対象外)、内部統制報告書の提出先が内閣総理大臣となっている(米国ではSECルールに基づく年次報告書への開示義務のみ)等)点があることが(意図的にかどうかは別にして)無視されている。
第三に、本番化の直前になって「11の誤解」のようないわば"通り一遍"の文書を出したところで、すでに企業が作成したRCMなどの膨大な文書が消滅するわけでも、監査法人との協議内容が白紙に戻るわけでもない。そういう時期にあえて「11の誤解」を出したのは、金融庁の責任逃れ、アリバイ作りではないかという点を批判しているのである。どうせ出すならもっと早い段階で、煎じ詰めれば実施基準そのものに、もっとわかりやすく、明確な基準を書いておけばよかったのである。
 
「今更、言われても、何も変わらない。変えられない。とあきらめている」のでは決してない。多くの企業では、コストや手間をかけて対応する以上、何らかのメリットや意義を見出していこうと努力しているのである。それは企業として至極当然の経済合理性に適った行動であり、また法令遵守、財務報告の適正性に留まらず業務の有効性と効率性を確保するための(会社法が企業に求める)内部統制システムが機能していることの証左でもある。そういう状況の中で、当局から「11の誤解」のような、一体誰に向かって何が言いたいのかわからないような文書が公表されたことに困惑しているというのが、企業側の偽らざる受け止めではないか。
要するに、「制度そのもの」に問題がなければ混乱は生じなかったのであり、「11の誤解」などという文書も出す必要もなく、それに対する批判をする必要も、批判への批判に対する批判をする必要もなかったのである。