「坂の上の雲」

 
(1)作品について
坂の上の雲」といえば、長編小説(単行本で6巻、文庫本で8巻)、歴史小説にして経営者愛読書という3つの心理的ハードルからこれまで「読まず嫌い」してきた。
しかし、実際に読んでみると、まず文章が極めて平易で、まるで清水義範のようにわかりやすい。表現が具体的・写実的で、まさに現場へ行って直接見聞きしてきたかのようなリアリティがある。これは、執筆にあたって膨大な資料に自ら当たり、事実に立脚した創作に徹した作者の偉業である。
新聞の連載小説であることから、必ず連載の単位で空白行によりブロック分けされているので、区切りをつけて読んでいきやすい。反面、説明済みの内容を繰り返したり、話の時間軸が前後したりといった短所もあり、一気に読み進めようとすると煩雑・冗長な印象を受けることも否めない。
また、特に意味のない改行を加えたり、軍艦や軍隊の名前を一行ずつ列記した部分も散見される。これは勘ぐるようで悪いが、筆の進みが遅いときの苦肉の策なのではないだろうか。
筒井康隆の「あなたも流行作家になれる」に、原稿の枚数を稼ぎたいときは、兵隊を登場させて点呼させるとよいというくだりがあった。即ち、
 「番号!」
 「1!」
 「2!」
 「3!」
 「4!」
 「5!」
 「6!」
 「7!」
 「8!」
 ...
という具合に。)
時代小説とはいえ、幕末から明治という近世・近代が対象で資料も豊富にあり、現代とのつながりも明確であるため、昔話という辛気臭さは微塵もない。個人的にも、港、造船業吹奏楽、鉄鋼業と、いずれも明治時代にルーツをもち、現在の自分と切っても切れない関係にある。そのようにこの作品を読む時、時代小説というジャンルにあてはめるのは適切でないだろう。
経営者愛読書の筆頭に挙げられる本書は、確かに随所に経営者の心構えに通じるくだりも多く、ビジネス書としての「利用価値」も高い。ただし、実際に本書で得た教訓や知見を活かしている経営者はさほど多くないように思われる。
(「入門ビジネス英語」の例文でいえば、I don't see much of that happening here.といったところか)
 
(2)戦争について
坂の上の雲」の大半のページは、戦闘場面および戦争前後の状況に割かれており、戦争小説としての色彩も濃い。作者は、戦争を善でも悪でもなく、歴史的事実として描写しようとはしている。しかし、作者は、言葉の端々で(この時代における)戦争一般を肯定し、特に日本の戦争を肯定し、美化している。
例えば日清戦争は列強との食うか食われるかの植民地獲得競争における日本のやむを得ざる選択の結果として捉えている。また、日露戦争は、ロシアの南下政策に対抗するための祖国防衛戦争であるとして、より積極的に支持している。しかし、ただでさえ乏しい戦力の中で、防衛戦争のために、なぜ大陸に進出する必要があったのか。また、これらの戦争に巻き込まれた中国や朝鮮の悲惨な状況はほとんど触れられていない。
それにつけても、この時代の人の命のいかに軽いことか。国家に対する忠誠心とか、民族としての団結とか、いかなる正当化論理によっても理解しがたい。「無益の殺生」をくり返した旅順攻撃等で失われた夥しい人命は、軍事戦略の拙劣さとか、兵士の勇敢さとか、そういうありきたりの言語ではとうてい了解できるものではない。
弾雨の中、整然たる縦隊で突撃を繰り返した日本陸軍に対し、戦力を温存させるべく、時に消極的な戦法を採ったクロパトキンやロジェストウェンスキーのほうがむしろ人間的とさえ言えよう。但し、両名とも、部下を戦場に放置して自らの救命を図った卑劣さは許し難いが。
二〇三高地で多数の部下を犬死にさせた乃木希典には、「爾ノ霊ノ山」などというふざけた漢詩を創って悦に入っている場合ではないぞ!と思わずツッコミを入れたいところである..
この頃から、マスメディアが世論を煽動し、国を戦争に駆り立てるということがあったようである。今でこそ平和主義を掲げている朝日新聞も第二次大戦までは好戦的メディアの急先鋒であった。マスメディアの使命は、客観的事実を正確に伝えること。しかし百年を経た現代でも、あるべき姿からはほど遠い。昔も今もマスメディアの罪は重い。
 
  正義なる戦争ならばさりならばなべて人の子に爆弾よ降れと
 
イラク戦争の頃につくった反戦の短歌である。
 
(3)三人のシスアド
本作品の主人公は、愛媛県出身の軍人秋山好古・真之兄弟と俳人歌人正岡子規の三人であるが、それぞれ強烈な個性を持ち、時に奇抜な言動に走るなど、読者として今ひとつ感情移入できないきらいがある。しかも巻を追うに連れて登場場面も少なくなってしまう。
正岡子規は文庫版三巻の冒頭でいきなり死去。秋山好古は、兵力不足と司令部の無理解から騎兵本来の戦法が採れず、馬を下りて火砲に頼る防戦に終始。真之も日本海海戦の現場では参謀としてただ立っていただけの感が強い。
むしろ、作中において圧倒的な存在感を示したのは児玉源太郎である。彼は、軍と政府の、また軍の内部にあっては司令部と最前線との結節点となり、全体が有効に機能するよう調整に奔走し、八面六臂の活躍を見せる。目的達成のためには、上位者を説得して職務権限を乗り越え、「専門家」の頑迷固陋な意見を切り捨て、そして自ら現場の最前線に立って指揮を執る。このような人材を、ビジネスの世界では「シスアド」と呼ぶことはあまり知られていないが、児玉こそは真のシスアドである。
この作品には、ほかに二人のシスアドが登場する。一人は、バルチック艦隊の乗員で造船技師のポリトゥスキーである。彼は、船舶技術に精通していただけでなく、現場の要請によく応え、問題解決者として模範的な行動を貫いた。また、妻への書簡を通じ、世紀の大航海の克明な記録を残したことも、地味ながら大きな功績といえよう。現代においても、頼まれもしないのに、打ち合わせがあれば議事録をつくり、まめにメモをとっている者がいたら、その人はシスアドである。
いま一人のシスアドは、明石元二郎である。彼は軍人でありながら戦地に赴く機会を与えられず、ロシア革命の機運を醸成するため、裏方としてヨーロッパ各地で暗躍した。特に専門知識もなく、語学力と国から預かった金だけを頼りに、見ず知らずの人々を組織化していく。ポリトゥスキーが技術系シスアドとすれば、明石は総務系シスアドである。学業成績が劣等で、運動神経にも欠け、学生の頃からポケットが破れていた点なども含め、個人的には最も共鳴できるキャラクターである。
 
(4)煙草について
本作品では触れられていないが、煙草が日露戦争以降の戦費調達の手段として用いられたことはよく知られている。*1戦争の財源不足に常に悩まされていた政府は、煙草事業を専売化し、依存性の強い薬物であるニコチンを合法的麻薬として活用した。作中人物も盛んに喫煙し、他人にも煙草をすすめているが、中でも児玉源太郎秋山好古はヘビースモーカーで、戦場でさえも煙草を欠かさなかった様子が繰り返し描かれている。
児玉源太郎は、日露戦争後まもなく55歳という若さで急逝する。作者は、日露戦争での心労が原因と分析しているが、史実によれば、児玉の直接の死因は脳溢血である。喫煙者の脳溢血リスクは非喫煙者の4倍。ならば、その原因はまず喫煙を疑わなければならないであろう。
秋山好古は児玉よりは長生きし、71歳で没したが、死因は糖尿病と脱疽であったという。糖尿病も、喫煙がリスクを高めることはよく知られている。一方、脱疽は、あまり知られていないが、手足の先が壊死していく「バージャー病」という奇病である。患者のほぼ100%が喫煙者であり、「タバコ病」との異名もある。病状の進行を食い止めるには腐敗した手足を切断する以外になく、禁煙以外に予防法はない。
日露戦争を「勝利」に導いた煙草の毒牙は、戦争の英雄たちをも容赦なく蝕み、病死の苦しみを与えた。「坂の上の雲」に隠された歴史の皮肉というべきである。
 
(5)まとめ
坂の上の雲」については、古き良き明治という時代への憧憬として見る向きが強い。かのホリエモンも「明治時代には官僚も民間も若さあふれる才能が国全体を動かしているんですよね。素晴らしいことです。」と、自身のブログで本作品を絶賛している。*2そして、昭和の暗さや現代の閉塞感といったものがこれに対比される。
しかし、明治とは、個人の人権が意識面でも法律面でも未発達であった時代でもある。日本人はいきなり目の前に現れた近代国家のなすがままに翻弄され、戦争の狂気に巻き込まれていったのではないか。そして日露戦争の「勝利」に勘違いした国は、さらなる戦争へと突き進んでいく。
大正・昭和にかけてようやく盛り上がった自由民権の機運は、国の戦争遂行の障害となり、教育やマスメディア、そして法律による思想統制言論統制が強化される。明治時代にはこのような国の施策が必要なかっただけのことであり、それがために、明治は明るく、昭和は暗いなどと対比することは無意味である。
坂の上の雲」は、歴史に学ぶことの大切さ、学ばないことの悲惨さを我々に教えてくれているのではないだろうか。